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    Marcel SchwobⅡ『少年十字軍』法王の祈禱

    Marcel Schwob “La Croisade des enfants”
     その,“Récit du Pape InnocentⅢ. ”『少年十字軍』法王の祈禱上田敏譯


    法王イノケンティウス三世(1161 - †1216)
    1198年から第一七六代ローマ教皇。Lotario de' Conti di Segni 
    ローマのコンティ家出身。この,M・シュオッブの“少年十字軍”
    の悲劇があった(1212年)時の敎皇。またカトリック諸國を糾合した
    連合軍による『ナバス・デ・トロサの戰い』はムワッヒド朝のカリフに
    壊滅的な打撃をあたえた。この闘い(La Batalla “あの戰爭”と呼ばれる)
    が以降のマグレブ地方の衰退をまねくことになる。
    (所謂レコンキスタ=失地回復)。強權的な敎皇は南フランスの異端
    カタリ派)の彈壓(アルビジョア十字軍)をも躊躇しなかった


    ちなみにイノケンティウス三世のウィキペデイア(日本語版)の記述はちょっと意味不明
    うそ八百といっても過言ではない。ちょっとあきれた。

    敎皇イノセンティウス三世
    Pape Innocent (Innocentius Ⅲ)


    餘語
    十字軍や異端信仰の,中世と最初の千年王國の末世,を描く比較的有名な映畫は,イングマール・ベルイマン( Ingmar Bergman)の【第七の封印】
    (1957年 The Seventh Seal ) がある。
    黒死病(ペスト)と癩(かつたい),どちらも中世,十字軍とは切り離せない,
    また“聖” と “穢れ”の因縁のひとつにほかならない。
    聖女聖者の奇蹟。 王が行う瘰癧さわり。
    『少年十字軍』 のとりわけ 『巡禮』,“聖と穢れ”に關連して特化すれば。
    ルイス・ブニュエル Luis Buñuel の【銀河】La Voie lactée 1968年)という
    サン・ジャック(聖ヤコブ)・デ・コンポステッラへの巡禮の旅を描いた映畫
    がある。

    この映畫の公開と,シュオッブ『少年十字軍』を學生時代に講読した時期が同じだったため強烈に結びついてしまい印象にある,ということもあるのだが。
    パゾリーニ風の,諧謔に満ちたロードムーヴィーといった
    おもむきだが,ジツは,
    パゾリーニ映畫の代表的男優であるピエール・クレマンティの友情出演があったり
    マルグリット・デュラス【インディア・ソング】
    【去年マリエンバードで】の主演女優デルフィーヌ・セイリグ
    出演したことでも話題になった。
    非常に好きな監督,俳優たちもぞろぞろの,キリスト教異端に題材をとった
    おもしろい映畫だった。
    たしか三百人劇場だったか,さっぱりイミ不明・・・なところもたくさんもあったが
    ・・・・面白くてはまってしまい一日中座って觀てたことを覺えている。
    (ということは入れ替えナシだったんだろーな・・・・。)

    そもそも何でこんな記事書いてるかと言うと・・・・
    八月黨系の南アジア系インド小説の連載書評,がすごくおもしろいから。
    (ナゾなw)

    アルビジョア十字軍兵燹
    La Croisade Contreles Albigeoi 1209

    Et moi, Innocent, je ne sais pas, je ne sais pas.

     あきらかならしめる,即 “白い” である。
     Innocent も 白 Je ne sais pas も
     “白”
     J’ai(癩病みの女) la tête couverte d’un capuchon blanc 
     Je(幼兒) ne sais pas; il (かれ=神)est blanc.
     Seigneur, ce sont tes petits innocents.
     Et moi(法王インノケンティウス), Innocent,

     いらへる幼兒の
     癩病みの女の
     法王インノケンティウスの,獨りごと,
     みなが一樣につぶやく
     je ne sais pas, je ne sais pas.
     ―しらない,しらない―

     獨白。(白は漢語で述べる,話す,陳ぶだ)
     知る,知らない,これも白である。
     あきらかならしめる,このことを意味する語,,
     ほかのことも,東西共通なのかもしれない。
      “白い” そして無知
     また,潔白。空白。照白。明白。獨白。告白。  

    法王の祈禱
      マルセル・シュヲブ  上田敏譯

    香煙と法衣とより離れて,わが殿中の一隅金薄(きんぱく)の脱落(はげお)ちた
    この一室に來れば,ずつと氣やすく神と語ることが出來る。
    こゝへ來ては,腕を支へられずに,わが老來(おいらく)を思ふのである。
    彌撒(ミサ)を行ふ間は,わが心自づと強く,身も緊しまつて,
    尊い葡萄酒の輝やきは眼に満ちわたり,聖なる御油(みあぶら)に思も潤ふが,
    このわが廊堂の人げない處へ来ると,此世の疲れに崩折(くづを)れて,
    (くゞま)るとも構ひない。

    「見よ,この人を。」(Ecce homo !
    主は實に訓令と敎書との莊嚴を介して,其司祭等の聲を聞取り給ふのでは
    あるまい。
    紫衣も珠玉も絵画も主は確かに嘉し給はぬ。
    唯この狹い密房の中より發するわが不束な口籠りならば,
    或は愍み給はむも知れぬ。
    主よ,かゝる老の身の予は,今こゝに白衣を着て御前に伺候し奉る。
    予はインノセンスと呼ばれて,君の知ろしめすが如く,何もえしらぬ。
    而して予が法王の聖職に在ることを容(ゆる)し給へ,
    聖職は始より既に制定せられ,予は唯之に從ふのみ。
    予がこの高位を設置したのでは無い。
    予は先づ日の光を,色硝子の莊麗なる反映(てりかへし)に窺はむより,
    寧ろこの円形の玻璃板に透見るを悦ぶ。
    世の常の老人の如く,予をして哭(な)かしめ給へ,永遠の夜の波の上に,
    辛らく差上げたこの蒼白の皺顏を君の御前に向け奉る。
    わが世の終(はて)の日數の經ちゆく如く,
    この痩せ細つたる手指をそうてわが指金(ゆびがね)も滑べり落ちる。

    神よ!
    予はこの世に於ける君が御名代として,信仰の淨い葡萄酒を湛へた,
    このわが凹めたる手を捧げ奉る。

    世に大なる犯(をかし)がある,極めて大なる犯がある。
    吾等は之を赦免し得る。
    世に大なる異端がある,極めて大なる異端がある。
    吾等は仮借せずに之を罰せねばならぬ。

    白衣を着て金薄も脱落したこの密房に跪く時予は烈しい苦悶に
    悩んでゐる。
    主よ,
    世の中の犯(をかし)と,異端とは,壯大なるわが法王職の領分に屬するか,
    或はまた,
    一介の老人が單に合掌するこの光の圏内に屬するかを判じ難いからである。
    また君が御墓についても惱んでゐる。
    御墓はいつも異教徒にとり巻れてゐる。
    これが恢復を計る者も無い。
    今はたれも聖地に向つて君が御くるすを導くことなく,
    われらは皆昏昏として眠つて居る。
    騎士は物の具を収め,國王は指揮を忘れた。

    主よ,われはまた胸をうつて,自ら責めてゐる。
    弱い哉,老いたる哉。
    廊堂のこの狹い密房に立ちのぼる,このわが囁に聞き給へ,
    而して御諭を授け給へ。
    わが臣下等は,フランドル(Flandres),獨逸(Allemagne)の國々より,
    馬耳塞(Marseille),ジエノア(Gênes)の市市に亘つて不思議の報知を
    送つて來る。
    今までに無い異端の宗派が生じた。
    處處の市市は默したる裸形の女人等が走り歩くを見た。
    この恥知らぬ啞の女等はたゞ天に指すばかり,
    又數多の狂人は朝いちに立つて,世の破滅を説く由。
    修道の隱者,流浪の學生たちは,いろいろの噂をしあふ。

         

    而していかなる心の狂惑にや七千有餘の小兒等は,
    それとなく心ひかれて家を棄て出た。
    御十字架(みクルス)と杖とをもつて旅に出でた者が七千人もある。
    何の武器も有つてゐ無い。
    頼るべ無き幾千人の小兒等よ,われらの恥辱よ。
    彼等は真の敎を辨へてゐない。
    わが臣下どもが尋ね問ふと,一齊に答へて,聖地の恢復の爲,
    イエルサレム(Jérusalem) へ行くといふ。
    さりとて海は越されまいと訊けば,否,海は波をわけて干上り,通路を開くに
    相違無いと答へる。
    信心深い,世間の親たちが,彼等を引留めても,夜の間に閂を破り,
    垣を越えて了ふ。
    小兒等の多くは貴人の落胤である。
    不憫極まる者どもかな。

    主よ,是等の嬰兒は皆破船の憂目を見て追つて,モハメット(Mahomet)
    の宗門に渡される。
    バグダット(Bagdad)の帝王は遠い其宮殿に待伏してゐる,或はあらくれの
    船乘の手に落ちて人買に賣られる。

    主よ,敎法の掟に從つて,言上する事を,容し給へ。
    必定,この小兒十字軍は善い業(わざ)で無い。
    之が爲に御墓の恢復は思ひもよらぬ。
    唯正しき信仰の外端(へり)に徜ふ浮浪の徒を増すばかりである。
    わが司祭等は之を保護しえまい。
    あの憐れなる者どもには確に悪魔が憑いた。
    彼等は山上の豕の様に群を成して斷崖の方に走つて行く。

    主よ,君のよく知り給ふ如く,悪魔は好んで幼兒を捉へる。
    曽つて,彼は鼠取の姿を假りて,其笛の音にハメリン(Hamelin)の町の
    子等を誘つた。
    子等は皆ヱ゛ゼル(Weser) の河中に溺れ死んだとも言ふ。
    又は,或る山の中腹に封じ籠まれたともいふ。
    信仰無き者の呵責される處へ,悪魔が幼兒等を導かぬやう,
    用心せねばならぬ。

    主よ,君のよく知り給ふ如く,信仰の改變は善い事で無い。
    信仰は,ひとたび燃立つ叢に現れて,直ぐに幕屋の中に収められた。
    後また,髑髏(されかうべ)が丘*の上,君が唇に洩れたことはあるが,
    之を聖體の器と筺とに蔵せよとの神慮であつた。
    今是等の稚い預言者等は君が敎會の大厦を破碎しさうである。
    これは是非禁遏せねばならぬ。

    見よ,油にて淸められたる吾等は君に奉仕して白衣と長袍とを摩り耗らしつゝ
    救を得ん爲の一心に,諸の誘惑に抗(はむかつ)てゐる。
    さるを今,己が爲す行いの何たるを辨へぬ彼等をも嘉し給はば,
    即ちわれ等司祭を,貶しめ給ふに非ざるか。
    もとよりこれらの幼兒を,君の御許に到らしめたい,但し君が御教の道に,
    依らねばならぬ。

    主よ,君が御掟に從つて,かくは言上し奉る。
    是等の幼兒は,此儘にして終に死すべきか。
    願はくはインノセンスの治下に新しき幼兒インノセンスの戮殺あらしむる勿れ。

    噫,神よ,この僧冠を戴きて君が御諭を乞ひ奉る事を恕し給へ。
    老衰の身顫はまた襲ひ来る。
    この憐れなる手を見給へ。
    老い朽ち果てたる此身かな。
    幼兒の信仰はもはやわが心に無い。
    この密房の壁に歳を經た其金色は,らみ果ててゐる。
    御空の日の円影まるかげもらんでゐる。
    (ころも)白い,涸れたわが心(むね)は淸い。

    君が御掟に從る。わが心,今疲れ倦んで惑ふ。
    或は罰も下し難く,また赦免も與へ難いのであらうか?
    われらの過去を憶へば決斷に躊躇する。
    此身はまだ奇跡を見たことが無い,心の暗を照し給へよ。
    或はこれが奇跡なるか?
    主は如何なる休徴*(しるし)を彼等に與へ給ひしぞ?
    時は今來たか?
    わが身の如き老いたる者も,君の淸き幼兒のやうに白かれ
    御意し給ふか?

         

    噫,七千人!
    たとひ信仰に無知なりとも,七千人の幼兒インノセンス無知を罰し給ふか?
    われも亦,インノセンスといふ。

    主よ,われも彼等の如く罪は無い
    老の極(きはみ)のこの身を罰し給ふ勿れ。
    彼等の願望は決して成就しまいと,永い歳月は予に敎へる。
    それとも,これが奇跡であらうか?

    他の冥想の時の如く,密房は今寂としてゐる。
    現身に立出で給へと求め奉る事の無益なるは勿論ながら,
    わが老年の高みより,法王職の高みより祈り奉る。
    願はくは教へ給へ。

    今は何にも解らぬ。
    主よ,彼等は君が憐れなる幼兒インノセンスである。
    而してわれ,インノセンスには,すべて,わからぬ,わからぬ。

     


      *休徴=よきしるし。めでたきしるし。祥兆,瑞兆
      *髑髏が丘=sur le Golgotha ゴルゴタの丘

       ? と!太字に強調は,上田敏譯文にはない,
       行段落は原文とあわせて,對照しやすいようにした。

     ▼フランス語原文

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    Marcel SchwobⅠ 『少年十字軍』

      Marcel Schwob “La Croisade des enfants”

     氣まぐれに。
     マルセル・シュオッブ(1867-1905)の『少年十字軍』 を
     『少年十字軍』は1896年フランスで出版され,1915年上田敏の翻譯
     によって日本に紹介された。その白眉といえる美しい詩章(Récit)。
     《癩の章》 (Récit du lépreux) 
     癩やみは白い。白い頭巾をかぶり白衣を着る。
     そして人が近づかぬよう,自ら堅木を叩いて病を知らせなければならない。

    癩病やみの話  マルセル・シュヲブ  上田敏譯

    あたしの申上(まをしあげ) る事を合點なさりたくば,まづ,
    ひとつかういふ事を御承知願ひたい。

    の頭巾に頭を裹(つゝんで),堅木の札をかた,かた,いはせる奴めで御座るぞ。
    顔は今どんなだか知らぬ。手を見みると竦(ぞつ)とする。
    (こけ)のある鉛色の生物のやうに,眼の前にそれが動いてゐる。
    噫ゝ,切つて了(しま)ひたい。
    此の手の觸つた所も忌まはしい。
    紅い木の實を摘取ると,すぐそれが汚れて了ひ, 
    ちよいと草木の根を穿(ほじ)つても,この手が付くと凋(しぼん)んでゆく。

    「世の人々の御主(おんあるじ)よ,我をも拯(たすけ)給へ。」
    此世の御扶(おんたすけ)蒼白いこのわが罪業は贖(あがな)ひ給はなかつた。
    わが身は甦生(よみがへり)の日まで忘れられてゐる。
    冷たい月の光に射されて,人目に掛かゝらぬ石の中に封じ込められた,
    蟾蜍(ひきがえる)の如く,わが身は醜い鉱皮(くわうひ)の下に押し籠こめられてゐる時,ほかの人ひとたちは清淨な肉身で上天するのだらう。

    「世の人々の御主よ,われをも罪無くなし給へ,この癩病に病む者を。」
    噫ゝ,淋(さむ)しい,あゝ,恐い。
    齒だけに,生來の白い色が殘つてゐる。
    獸も恐がつて近づかず,わが魂も逃げたがつてゐる。

        1212年LaCroisade
                  La Croisade 1212

    御扶手(おんたすけて),此世を救ひ給うてより,今年まで一千二百十二年になるが,このあたしにはお拯(たすけ) が無い。
    主を貫通(つきとほ) した血染めの槍が,この身に觸らないのである。
    事に依つたら,世の人たちの有(もつ)てゐる主の御血汐(おんちしほ)で,この身が癒(なほ)るかも知しれぬ。
    血を思ふことも度々だ。この齒なら咬付(かみつ)ける。
    真白の齒だ。
    主はあたしに下さらなかつたので,主に屬する者を捉(つかまへ)たくなつて堪(たま) らない。

    さてこそ,あたしは,ワ゜ンドオム(Vendôme) の地から,このロアアル(Loire)の森へ下りて来くる幼兒(をさなご)たちを跟(つ)けて来た。
    幼兒たちは皆十字架(クルス)を背負つて,主の君に仕へ奉る。
    してみるとその體も主の御體,あたしに分けて下さらなかつたその御體だ。

    地上にあつて,この蒼白い苦患(くげん)に取巻かれてゐる
    わが身は,今この無垢の血を有(もつ)てゐる主の幼兒の
    頸に血を吸取つてやらうと,こゝまで見張つて來たのである。

    「恐れの日に當たりて,わが肉新(あらた)なるべし。」
    (みんな)の後から,髪の毛の赤い,血色の好い兒が一人通る。騎士
    こいつに眼を付けて置いたのだから,急に飛付いてやつた。
    この氣味の惡い手で,
    その口を抑へた。

    粗末な布きれの下衣(したぎ)しか着てゐないで,
    足には何なにも履かず,
    眼は落着いてゐて別に驚いた
    風も無く,こちらを見上げた。
    泣出しもしまいと知つたから,
    久しぶりで,こちらも人間の聲が
    聞きたくなつて,口元の手を離して
    やるとあとを拭きさうにもしないのだ。
    眼は他(よそ)を見てゐるやうだ。

       ―おまへ,何て名だ
    と質(きいて)みた。
      ―ティウトン(Teuton)のヨハンネス
    と答へる其の聲が透きとほるやうで,聞いてゐて,心持ちが好くなる。
      ―何處へ行くんだ
    と重ねて質いた。さうすると,返事をした。
      ―耶路撒冷(Jérusalem)へ行くのです,聖地を恢復(とりかへし)に行くのです
    そこで,あたしは失笑(ふきだ)して質(き)いて見た。
      ―耶路撒冷(イエルサレム)つて何處だい。
    答へていふには,
      ―知りません。
    また質いて見た。
      ―耶路撒冷(イエルサレム)つて一體,何だい。
    答へていふには,
      ―私(わたくしたち)の御主(おんあるじ)です。
    そこで,復(また),あたしは失笑(ふきだ)して,質いて見た。
      ―おまへの御主(おんあるじ)つて誰の事ことだ。
    答へていふには,
      ―知りません。唯,真白(まつしろ)な方です。

    此返事を聞いて,むつと腹が立たつた。
    頭巾の下に歯を剥出(むきだ)して血色の好い頸元に
    伸し掛かゝると向うは後退(あとすざり)もしない。また質いて見みた。
      ―何故恐くない。
    答へていふには,
      ―何の恐いものですか,真白な方かたですもの。
    この時とき涙はらはらと湧いて來た。地面に身を伏せ,氣味(きび)の惡い唇ではあるが,土の上に接吻して大聲に叫んだ。
      ―あたしは癩病みぢやないか。
    ティウトンの兒はしげしげと視てゐたが,透きとほつた聲で答へた。
      ―知りません。

    さてはわが身を恐がらないのか,ちつとも恐いと思つてゐない。
    この兒の眼には,あたしの恐しい白栲(しろたへ)が,
    御主のそれと,同じに見えるのだ。
    急いであたしは,一掴みの草を毟(むし)つて,此兒の口と手を拭いてやつて,
    かう言つた。
      ―安らかに,おまへの白い御主の下(もと)へ行け,
       さうして,あたしをお忘れになつたかと申上げて呉れよ。
    幼兒(をさなご)は黙つて,あたしを見つめてくれた。
    この森蔭の端(はづれ)まであたしは一緒に行つてやつた。
    此の兒は顫(ふる)へもしずに歩いて行く。
    (つひ)にその赤い髪の毛が,遠く日の光に消えるまで見送つた。

    「幼兒(をさなご)の御主(おんあるじ)よ,われをも拯(たすけ)給へ。」
    このかた,かた,いふ木札(きふだ)の音が,淨い鐘の音の如く,願はくは,あなたの御許(おんもと)までも達(とゞく)やうに。頑是無(ぐわんぜな)い者ものたちの御主よ,われをも拯(たす)け給へ。 

            十字軍 ベネチア




    Je ne sais pas; il est blanc.

        ひとつだけ。上田敏の譯に氣に入らないところがある。
           “Je ne sais pas; il est blanc” 
           “わたしは知らない,かれは白い” 
        この,シュオッブのフレーズ(Phrase)を
           “知りません。 唯,真白な方です” 
        と,してしまったたところ。 
           “唯” も “方” も よけいである。 と思う
        この,知らない,白い,というシンプルな表現が“素”。素白。無端の白さ。
        だからこそ,普遍(あまねくあり)。かつ絶對の白とそれに對比される,
        竦(ぞっ)とする白,癩者の白が立ち上がる,と。

      ☞ La Croisade des enfants :Récit du lépreux フランス語原文

               *      *      *

     舊約のヨブ記を手元に置いて讀むならば,
     これは非常に示唆的な詩片だと思う。
     自らの生まれた日にちを呪うヨブと,
            「わたしが大地を据えたときお前は何處にいたのか」
     と,問う神。その關係の疵謬に對する逆説的な解の一ですらあるよう
     に思えるのだ。 
     と,さはさりながら・・・・。 
     自ら “大地をすえた”,“人に息を吹き込んだ” とのたまいし
     アブラハムの徒の 神よりも,南アジアの風土とヒンズー敎の合一,
     サンカン・パラニン・ドウマデイ
     Sangkan paraning dumadi “いのちは何處から生じ,行き着くところは何處か”
     この命題,に牽かれ,しだいに一神敎より遠ざかってしまった。
     また,佛教のśūnyatā),その 無端無住の軛に繫がれるようになってからは,
     宗教的な意味でも,文學表現においても,キリスト敎にすっかり興味がなくなって
     しまった。
     とは言え,このシュオッブの 『少年十字軍』 とりわけ癩(レプラ)の章は,
     ひさしぶりに讀み返せば,今も,澎湃と熱いものが渤し來たる。
     やはり深い感動を覺えるのだ。また,この詩情はキリスト教徒の信仰に
     照らしても,
     決して“異端的” なものでなく,異教徒にとっても親密に兩の腕に
     受けとめられる類だ,と思った。
     とりもなおさず,“普遍性がある”,ということ,これが言いたいだけなのだが。 
     もっとも,M・シュオッブの文學を,キリスト敎異端の文學だ,と捉えている
     それじたい,わたしの勝手な,偏ったみたてにすぎないかもしれない。

    MARCEL SCHWOB
       MARCEL SCHWOB  le 26 février 1905 mort à Paris



    癩病の癩は漢語だが,北條民雄*の小説を讀むと,
    かつたいという言葉が
    頻繁に出てくる。
    じっさい「(かったい)の瘡(かさ)うらみ」という,意味するところの非常に慘酷な,
    かつ,音の哀しげに美しい日本語のいいまわしもある。

    司馬懿 草書 “白”ちなみに「癩の瘡うらみ」,
    瘡(かさ)は梅毒やみ,のことである。
    近頃の辭書には載ってないか,あるいは,
    「すこしでも自分よりよい境遇をうらやむこと」
    とある・・・・!?驚いたな。
    イミを矮小化するにもほどがある。
    (だから,日本人はことばを,そまつにしている
    日本語が豐かでなくなれば,ひいては日本人。
    の感性を減じしまいに滅ぼす,というんだ
    (ッタク)

    ・・・・。
    この “かつたい” の語原をご存知の方がいらしたら,
    是非ぜひ敎えていただきたくおもうのだが,上田敏かたかたいはせるという譯語は,
    “かつたい” の音をうまくつかった玄妙の表現なのか。
    あるいは “かったい”自體が,日本では,“かたかたいはせて” いたのか,
    (さらに踏み込めば,“かたかたいふ”,だから,“かったい”なのか)。 
    ちなみにシュオッブの原文では拍子木,あるいはカスタネットのようなイメージの
    言葉がつかわれる。(secoué un cliquet de bois dur.ラチェットの堅木を揺らせ)

     *北條民雄= (1914年9月22日京城 - 1937年12月5日)
      ハンセン病により隔離された全生園での生活の中で小説を書いた。
      日本文學の歴史のなかで,絶對に忘れてはいけない作家である。
      その,代表作 いのちの初夜(1936),これこそ國語の敎科書に
      積極的に採用されるべきだと,わたしは心の底からおもっている。
          ☞ いのちの初夜 北條民雄

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    詩餘 句裂 偈

    詩囚

    Author:詩囚

    自作の詩ほか
    五言絶句を中心に四句偈,詩餘
    ふくめ中國舊體詩を紹介します

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