スポンサーサイト

    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。

    孟東野(孟郊) 《游子》  不見萱草花

    誰言寸草心 報得三春暉  ―― 游子吟 孟東野

    古來,母が“令堂”,“母堂”萱草
    と呼稱されるのは,廟堂を
    まもる主婦,母の居室を
    堂,北堂などと謂うため。

    その堂前に萱草を種る
    という慣いから,母の
    ことを “萱堂” とも
    謂う。詩歌に詠われ
    てきた忘憂草,萱草,
    ワスレ草,ノカンゾウ。
    中國語名は,かず多く
    あり,“宜男草”,
    “黄花菜”,“療愁”“金針”,“鹿箭”等。
    また母の誕生日を“萱辰”と言ったりもする。

       孟東野。 貧窮の生涯, 扶持をもとめて轉輾とさすらう
     
    孟郊(孟東野) 游子

     寒門,貧しい家に生まれた息子は,故郷を遠く離れて旅にでる。
     寒門のうちにくらす慈母は,息子の歸りをいまかいまかと,
     日がな一日堂門にもたれ,途のむこうをのぞみて,待ち暮らす。
     
     この母の住まう堂前には萱草がはえるているもの,
     しかし,この母は飽かず,道の遠く涯を眺めこらして
     萱草花の咲くも,見やることなしに・・・・

     わたしの初見の解釋はこうだったが・・・・。
     つまらない詩だな,孟郊にしてはあたりまえすぎる,と。
     “孟東野迷” としては,これで終わるわけにはいかないの。
     よくよくながめて,この五古の“絶句”をあじわいつくすと。 

     起句,萱草生堂階の“”。
     音のうつくしさもさることながら
     この,のニュアンスが深い。というかすべてである,かもしれない。


      游子   Youzi

    萱草生堂階   Xuancao sheng tang jie 
    遊子行天涯   Youzi xing tianya
    慈母倚堂門   Cimu yi tang men
    不見萱草花   Bujian xuancao hua

             廣韻下平聲九  涯花
     
     *萱草=わすれ草,忘憂草。悲しみ憂いをわすれる草と
          日本語の紫の花の勿忘草とはまたちがう。
          万葉でも多く歌われるのはどちらのほうなのだろうか。
     *堂階=堂は母の居室のこと。その戸口の前の階
     *遊子=旅にでたきり戻らない。
          “兒”のことも“夫”のこともいうし“愛人 Airen” のこともいう
     *倚 =もたれて



    萱草,生ず,堂階に。
    そもそも萱草は北堂にあるもの,とは『詩經』のむかしから。
    自明のことである。
    さらに中國では萱堂とは,母のことをいう。
    自明のことまでわざわざ説明しないのが,字數の少ない“絶句”のよさというもの。
    つまり,では萱草,萱草花と二度くりかえさなければならないその意思とはなにか。

    若いときから科擧になんども失敗しつづけ,壯年に至りようやく進士に及第する。
    それまでに,貧惨を窮めつくし,辛酸をなめた。
    母を呼び寄せ,ともに暮らすことができたとき,彼は五十歳であった。
    母の“游子” に對する慈愛の情,また“游子” の母への深い愛情,を詩にうたう。
    孟郊はそんな情のこもった,かなしみにみちた樂府をいくつも書いている。

    kanzou2jpg.jpg  日の差さない
      北の堂に植うる,あるいは
      また,生じる草花である。
      憂いを忘れる草,忘れ草
      夏には赤黄色の花が咲く。
      
      起句,生ずべきもの
      そして
      結句,それが,生じない
      という解釋はどうだろうか
      なぜなら
      轉句,慈母倚堂門
      だから,と。 
     
     

     飽かず絶えず門にもたれて  目を凝らしている,  門を往來する母,
     踏み固められる堂の階,ということなのかもしれない。
     そうすると結句の“不見” は二つの意味に看てとれる。

     まるで,あそこに生えているのを見たことがないね,と,
     母は氣づかない,見ることもしない,と。
     萱草を見たくない,忘れたくないのだ,と

     どれだろうか,と,つきつめる必要などもとよりない。
     解釋は自由。
     漢詩を讀むにつけ,わたしがおもうのは,正解は かならずある
     しかも,いくつかある,ということ。
     とくに,絶句(句切れ)を讀む作法でもあるとおもうのだ。

      
      忘れ草わが紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため
                      大伴旅人(万葉集巻三)

    ちなみに孟東野の忘憂草はもうひとつ。笑えます。
    まったく違った,うたわれかたの忘憂草 ☞ 孟郊 《 百憂
    孟郊全詩集
    孟郊樂府・詩解釋
    スポンサーサイト

    孟東野(孟郊) 《喜雨》 

    moukoukiu.jpg

       孟東野は,これ,雨の自由,不羈不束をうたっているのだろうか
       千里のかなたから・・・・やってくるとき。しかも雨の寓意は。
       無意。

       驟雨。
       無心ゆえ。
       驟(うごづ)く,という意味はとつぜん變化する,ということである
       零雨驟散。  驟雨零散。

       淒淸 とは
       微寒のこと,淒涼。
       歌聲の形容によく使われる淒淸は悽愴の意,松風淒清
       ここでは淒淸の雨の聲音と淒涼の意,高枝の孤寂を慰めるの意もあるか
       
       散漫 とは 
       无拘无束という自由の意のほかに
       不集中,零散,分散 もしくは,弥漫四散;遍布という
       雨粒自由に,四散しそして遍く敲く,土を碎く,そんなカンジだろうか

       霑濡。濕涂。
       しかし堅い石を敲き,柔らかい泥土を穿つ。
       瀝滴。
       ちなみに零,とは少しの意,粒。細粒。
       雨,雪の粒が細かく碎かれるところから生じた字意
       碎雪をあらわすに,零星,また零散の語はよく使われる。

       唐詩の五言絶句の,誰にもわかりやすい語,しかし字意深し,という醍醐味。
       字形を吟味すると,轉換されて膾炙される經緯が確かにこれが文化だと
       うれしくなるほどうちのめされる。

       いつしか憂いの騒がしさは消え “字” に夢中になる,
       月亮の夜も。雨の夜も。
       零寥の雨の日も,散漫の日も。
       詩の,効用
       わたしにとっては。てっとりばやく憂さを忘れさせてくれる・・・・。
       ・・・・・明日も雨でもいいや。

    喜雨

      喜 雨  Xi yu

     朝見一片雲  Cháojiàn yīpiàn yun    朝に見る一片の雲
     暮成千里雨  Mù chéng qiānli yu     暮に成す,千里の雨
     淒淸濕高枝  Qīqīng shī gāozhī     淒清と*,高き枝を濕し
     散漫沾荒土  Sanman zhān huāngtu   散漫,荒土を沾ず

           廣韻上聲十  雨土



       霖雨泥我塗,流潦浩縱横 ―― 曹植 《贈白馬王彪》

          霖霖雨。ながくつづく雨のこと。纏綿大雨。
     
          遇雨。 
          雨に適(かな)う。  雨に出逢う。
          雨にも生きる内熱と自在あることをかんじるときもある
          恩恤,めぐみであるという,天算も。
          水。木木,枝枝。櫱(ひこばえ)を濡らす

          遭雨。
          騷に離(あ)う。    雨に會う。
          空も地も,重い。
          堪えがたい,心挫けるときに,重く,ふるあめ
          泪。泣。

       向來苦摧傷,零雨雜飛霰 ―― 陸游 《春晩簡陳魯山》
     
          零散零雨。  驟散霖雨。
          沫の若し露の如し。
          親しい友人の葬別はなぜか,きまってしのつく雨もようだ
       
          戰地に降る雨はどうだろうか。
          ついおもう。
          何,雨,というか。
          どんなものにも,かならず,特別な字,言い回しがある
          それが “文”。 それは又あしたにしようかあさってか
     
          赤い水。人算のおろかさ。命數のしたたるその滴り
          涕。哭。    
      
       戰聾の雨だれをきかんとはするか ―― 富澤赤黄男
       
          火,燈,炎。 燹
          わたしは望んでいるのだろうかと,訝りたくなるくらい
          ちかごろ戰火を身近に感じている。中國との。
          それは惡夢にちがいない。ちがいないのに。感じている。

          傷ついているだけなんだけど
          いや氣づいてるだけなのか

          わたしは病んでいるのか。
          雨は歇む。歇まない雨はない。
          涙。叫。

    gyokuzankumo.jpg

       雲峯雨岫安排定,松竹林林自整齊

          雲無心以出岫, 雲無心にして岫を出で。
         

    孟東野(孟郊) 《春後雨》 

    霎時間,雨散雲歸,無處追尋
                              ―黄庭堅《兩同心》


    孟郊(孟東野)《春後雨》Meng Jiao, Mèng Jiāo

       shà, という言葉は一瞬のような短い時間のことをいう。
      雨カンムリに妾。
      雨聲のこともいう。
      霎霎たり。といえば一瞬ザーッと聽こえる雨音のことだろう。 
      が,どんなにみじかくても,一瞬で降りやむことはまずないだろうから, 
      降りはじめの,ひとをして雨に氣づかせるような音のことなのかもしれない。
      屋内にいて,雨を知る,そのきっかけはいろいろあろうが,
      突如として聽こえてくる
      ざーっ,さーっという音に,心がさざなみたつことも多い。
     
      つまり霎は,心動かす雨の音。
      そして《春後雨》は。
      昨夜,羣物そぞろわきたつような,雨が降る音を聽いた
      朝目覺めて,庭,しかし何もない空虚な庭を見てみれば
      ああ, 
      という解釋はどうだろう。
      一霎雨,には昨夜來の心の動きを想像させる力がある,ということだ。
      非常に孟東野らしい。

    雨

      春後雨  Chūn hou yu 

     昨夜一霎雨  Zuiye yī shà yu      昨夜,一霎雨
     天意蘇羣物  Tiānyì sū qun wù    天の意,羣物を蘇らせしむ
     何物最先知  Hé wù zui xiānzhī    何物最も先んじて知らん
     虚庭草爭出  Xūting cai zhēng chū  虚庭に草,爭い出づ

        平水韻入聲二 物出
        (廣韻入聲六,術 八,物 通用)


    『全唐詩』,『孟東野詩集』九巻・詠物, 『孟郊集校注』(浙江古籍出版社)


       『全唐詩』では《春雨後》だが 『孟東野詩集』《春後雨》になっている
       孟東野はヘンだからなあ・・・・
       詩意からすると,は通じない。どちらが正しいかはナゾ。

    孟東野(孟郊) 《旅行》 

    孟東野《旅行》

       ふむこれまた,やけにわかりやすい・・・・。
       タイトルな・・・・。

       《旅行》 ,だって。
       ぷぷ。
       楚水は冰が薄い, 楚の雲は雨も微やか
       野の梅は枝が互い違い(參差さんし)に,まばらに花發(ひら)く
       さては,江南といえど。やっぱり
       サムいんだな。
       さすが,ミスター寒蟲號 (ハンチュンアオ)

       船(旅榜)に乘ったり,
       ウロウロしたり,あそんでから,歸る,・・・と。 
       う,うーむ。旅行なんだから。
       歸らんでどーする。

    瞿秋白 《詠菊》 

    Yongju.jpg

           QuQiubaiciircle.jpg

      研精覃思,劚山覓玉。常州高材,凛冰少菊

      瞿秋白が常州時代に書いた詩,殘存するなかの最も早い詩作は,十四歳のとき
      と言われるが,《詠菊》。
      これは秋,白,と真名の霜を讀み込んであり,字(あざな)を “秋白” と
      名乘りはじめたころに作ったものだろう。
      字(あざな)とは・・・本名に關係深い文字を選んで自らが名づけるものである。
      讀むほどに味わいある,すばらしい詩だとおもう。
      わたしは完全にのぼせてしまった。

      けして華奢というものではない,表現力の勁さ。
      冴え冴えとした美しさ,趣向・・・・瞿秋白,獨特の風韵というものだろう。
      時代のすさまじい變革の季節,その不安の中で,社會に旅立つ感慯,と言った
      ものであったのかもしれない。
      菊を自らに比して詠んでいる。

        秋霜,の嚴しさはいまだ知らない,しかし白玉の盆に載せ秋色をたずぬ,

      というようなかんじであろうか・・・・
      秋色は,このばあいは稍稍愁いを含んで仄暗い,くらいの感覺かもしれない
      秋の色を指すズバリ白,ということでなく,だ。
      自分は今歳,開花,した菊だという。
      白玉の盆がふさわしい。
      白玉盆は滿月のことも言う
      秋色を覓ねる。霜の痕などない。
      これでおわらない,含意がそこに在る,だから “詩” なのである,という翳り
      これこそ“情操”,つまり 傲霜 があるという・・・

      この詩を讀めばだれもが瞿秋白の天分を,その詩文の早熟の才に瞠目しただろう
      ことを思う。ただ・・・・惜しむらく,
      二三百首あつたという常州時代の詩の多くは失われてしまっている・・・・!


     詠菊     yǒng jú

    今歳花開盛  jīn suì huā kāi shèng     今歲,花開き盛ん
    宜栽白玉盆  yí zāi bái yù pén        栽りて白玉の盆に宜しき
    隻縁秋色淡  zhī yuán qiū sè dàn     隻(ただ),緣が淡き秋色*
    無處覓霜痕  wú chǔ mì shuāng hén   覓(さがしもと)むるに霜の痕なし

         今年開いた花。白玉の盆にかざるにふさわしい。
         ただ,ほんのすこし花辯の縁に秋淡く感じるような色を覩る。
         でも・・・・探してみても霜の痕など何處にあろうか。
     

    孟東野(孟郊) 《閑恩》 

    MouTouyaXuanyuan.jpg

         《閑恩》   Xian yuàn

     妾恨比班竹  Qie hen bi banzhu 妾(あたし)の恨みは比の班(まだら)
     下盤煩冤根  Xiapan fanyuan gen  盤下に,煩冤の根(こん)
     有筍未出土  You sun wei chūtu  筍,未だ土から出てくるまえに有り 
     中已含涙痕  Zhong yi jin leihen  已に中には涙含んだ痕が
     

       押韻;根,痕 
     
       班竹=竹のまだらは涙の痕,湘妃斑竹
       煩冤=わずらわしく躁たるさまでありしかも憤懣やるかたない,感情。
          勃鬱。 また根の屈折の樣態。どれでもよいのでは

    孟東野(孟郊) 《古怨》  

    MoutouyaGuyuanhua.jpgMoutouyaGuyuan.jpg

      古怨 Gu yuàn

     試妾與君涙  Shi qie yu jun lei  試しに妾と(妾の)君,涙して
     兩處滴池水 Liangchu di chishui 兩(ふたつ)(ところ)池に水,滴らせ

     看取芙蓉花  Kan qu furong huā 取って看るほどの芙蓉花
     今年爲誰死  Jinnian wei shui si 今年は爲誰(どちらの花)が死ぬでしょう
      
      押韻;水,死

    芙蓉花=中國では古にいう荷,ハス,蓮のこと



      これに近いものを考えてみた。
      バルベイ・ドールヴィリー(Jules Barbey d'Aurevilly)の描く烈女操。
      『Les Diaboliques」,の最後の物語・・・・貞女の逆説的な倫常を,
      一篇の復讐譚にしたてた
      《La Vengeance d'une femme》(ある女の復讐), あるいは・・・・。
      Le Bonheur dans le crime(罪の中の幸福)。
      十九世紀フランスの厳格なジャンセン派の家庭に生まれた文人
      であるが,・・・・。
      孟郊の倫理の奇妙な苛烈さをたとえるなら,まさにジャンセニズム
      であることにおもいいたった。
      ジャンセニズム,というのはカトリックの異端ではあるものの,
      絶對の神の恩寵と,
      それ以上に人の,非力,を強調した神學的(つまり信仰的ではない,
      という意味においての)教理の究,ということになる。あらかじめ,
      用意された天地離阻の潰潰を前提とした,押し付けがましいとすら
      いえるほどの神の愛,というキリスト教獨特の論理構成の典型の
      ようなもの。
      いまあらためて感じる・・・・,
      以前戯れにして孟東野
      古樂の異端カルロ・ジェズアルド Carlo Gesualdo にたとえたことが
      あった。

      さらにそこから連想して《聽琴》で
      神の恩寵を受けて
      感謝する孟東野のイメージを書いたが,

      カトリシズムの狂氣,厳格すぎる作爲的倫理。
      暗く美しい暗渠。異端。

    黄仲則(黄景仁) 《冬夜》 

     留取伴明光

    天水

    黄景仁 《冬夜》 空堂夜深冷

            
          留取 Liú qǔ は,猶,留存す。 
          この場合,「取」は,語助詞。
          いぜんとして,月が明光を伴ってなおとどまる。  
          あるいは「留在しやがる」のニュアンスかも知れぬ。
          なおいっそう月の光が皎皎と淒淒と冴えわたる結句。

          空堂に獨り。明光に冷たさしか感じられぬ夜。
          霜は,一掃できても月光は “掃” できがたし。
          いつまでも,いつまでも明るく光かがやきゐる

          そのようなれば,
          冴え冴えと煌めく光に,慯つけられて疼く心,
          凍るような冷たい夜氣のなかのおびえ,おそれをうたうか

          しかし光,本無情。
          “無情”ではなく。 もとより情なし。

          靜寂のなかの天の嚴かさ。白じらしさ
          この光,心の“空” にしみいってくる
          すなおに,いとおしい。
          黄仲則。 孤單奇零の人,句裂れ。

    テーマ:詩・想 - ジャンル:小説・文学

    詩餘 句裂 偈

    詩囚

    Author:詩囚

    自作の詩ほか
    五言絶句を中心に四句偈,詩餘
    ふくめ中國舊體詩を紹介します

    こちらのblogは不定期の更新です

    メインのブログは
    楞伽案前,楚辭肘後

    最新記事
    このブログのカテゴリ
    別のブログ記事リンク
    全記事表示

    全ての記事を表示する

    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。